昭和42年12月20日 夜の御理解
言うて、どうこう言うたって分かんなさらんのだから、という様な「 」があったんですよね。ま一寸、しかしまあ本当にあの信心のない人の考え方というものはなんと、その気の毒な考え方をするだろうかと、私はこう思ったんですよねえ。それを聞いてから、そしたらね、すぐ私心眼に頂くのが、あの入り口の教会、あの看板の塔ですね、あの上に書いてある、限りなく美しくなりましょうという、あすこの美しくの「く」という字と「美」という二字を頂いた。ひらがなの「く」と「美」限りなくの「く」と「美」ねえ。私共が目指すところは、何時も限りなく美しくなろうと、こう言うのである。ただ美しょうなろうというたって美しくなれない。成程、この「く」字というのは、こう曲がっておる。本当の事じゃない。真直ぐい事じゃない。根性の悪い事である。なんと腹の悪い人じゃろうか、なんと浅ましい人じゃろうかという事なんです。「く」は、けどもそれはね、美しく美しくなる為の神様の演出であり、その人の為に、それを聞く者の為に、わざわざ神様が演出してござるんだという事なんです。この「く」ね、「く」という字、こう曲がっている、成程、それはまともな考え方じゃない。曲がった考え方なんです。私共、その人を曲がった考え方をさせ、曲がった事を言わせてです、次に私共の美しい心を試されておる。いやより美しゅうならせようとする神様の演出であるという事が分かる時に神様、ご苦労様でございます。こういうところ迄お働き頂いてすいませんという事になるのです、ねえ。私は、もう信心は、ですね、やはり目細ういくという事は、そういう様なところにもそういう頂き方をすることだと、こう思うですね。それを本当にご苦労様とお礼の言えれる心ね、「く」と「美」。成程それは曲がった根性であり、ね、真直い生き方ではないけれども、その真直くない人を真直ぐない事を言わせて、次に私共の限りなく美しくなろうとする美しい心を試されたり又は、その美しい心をより美しい心にです、なんと神様、気の毒な可哀相な、なんと貧弱な心の人であろうかと、村では顔役、何々の先生とまで言われるような人が、ま何と貧しいこういう先生から、例えば教えてもらっとる、子供達がおかげの頂けるはずがない。ま、何と気の毒な人じゃろうかと神様にその事を祈ってあげなけりゃおられない。ここから美しい心というのが、より美しゅうなれる。同時に私共、そういう時に美しい限りなく美しゅうなろうとする、その美しくなろうとする心を神様は試されておるところの演出である。やはり聞いた途端にカーッと、も本当にもやもやそれを聞く者が皆腹の立つ、本当にあいそんくそんなか、あん人ばっかりは、も、それを聞く人ほどに腹を立てる。本当に、そげんあるですよねえ。ここの御信者さん方がそういう御用さして頂こう。それを阻害するんです。あんたが、なんでどぶん中に入っとるの。ここん者にさせりゃよかじゃんの、あんたが入るのじゃなかやんの、ねえ。あたしゃ、ここの信者だから御用さして頂きよると、よっぽど言いたかったけれども、言わんで辛抱したと、こう言う。いや、そこで喧嘩せんならん。その話を人に話せば話す人が皆んな心を汚す。ちょいとあきれた人ですね。どうした根性の悪い人じゃろうかと聞く人毎に、けども私はそれ聞きながら、こう思うたんです。ねえ、ま、何と心の貧しい人じゃろうかと思う。本当に、こう祈らなければおられない。皆さんは、それを聞かれてから、どう瞬間思われただろうか、ねえ。皆さんが、例えばですねえ、どうしてほんなこて根性悪かろうかと、もし思われたら、もう失敗。限りなく美しくなろうとしておる意欲が、ねえ、薄いものである。又、美しい心ではないことである。試される、私共が美しゅうなろうとする心を神様は、その様な事で試されるだけではない。その事をもってより美しゅうならせて下さろうとする働きである。何時も私は、この二字を思い出したり限りなく美しくなりましょうという「く」の字と美しい「く」の字は曲がった事。ねえ、自分が腹の立つ様な事を、例えば言うた人の事は「く」の字である。けれどもです、それはより美しくならせて下さろうとする働きやら、お前の心の中にある、その美しい心というものを神様は試されてあるんだという頂き方の中からです、私はそういう心でまいります事が、鏡を前に立てるという事ではなかろうかと、こう思うねえ。これでいきゃ家だけではない、村だけではない、国が治まっていくと、ねえ、どうぞひとつ信心はほんなそれだけの事。そこんところをお互い焦点をそこに焦点をおいて行じていく。限りなく美しくならせて頂く為に、いよいよ限りなく改まらせて頂き限りなく研かせてもらおうとする願いというものが、何時もあっておる。自分の心の中が美しくなっていく事が本当に有難い、ね。腹が立つ、ハアーまあだこの位な事に腹が立つと、それをすぐ清めていく改めていって次の美しい心をそこから出していこうとする様な生き方、日常生活の中にどのくらい沢山それがあるやら分かりません。ねえ、心を汚すといった事もそうなんです。汚すことはいらない。かえってその事によって清められる材料をかえって汚していくといった様な場合もある。それでは信心の稽古を何処にしておるか分からないという事になる。どうぞ。